2013年9月7日土曜日

来日アーティスト Pick up Huey Lewis & The News(ヒューイ・ルイス & ザ・ニュース)

〔SOUND FINDER 営業日記!〕 推薦公演 vol.004 レコードを聴いてライブに行こう!

“ ロックンロール兄貴 ”が来日!「ハート・オブ・ロックンロール」を聴いて、スカッとしたい! さぁ!兄貴に逢いに行こう!!


'50年、ヒューイ・ルイスは、ニューヨークに生まれてすぐサンフランシスコへ移住。母親がヒッピー思想家で、白人でありながら黒人居住区に住んでいたという、当時としては特異な環境の中にあり、自然にR&Bなどの黒人音楽に親しむようになった。
大学時代にバンドを結成、音楽活動を始め、’72年にカントリーロック・バンド、クローバーに加入。’76年、クローバーはパブ・ロック界の大御所であるニック・ロウの誘いを受けて渡英し、エルヴィス・コステロのファースト・アルバムのバックを務めた。
この時期、ヒューイをはじめとするクローバーの面々はアイルランド・ダブリン出身でイギリスでも高い人気があったシン・リジィの前座に起用され、その縁でリジィのアルバム『ライヴ・アンド・デンジャラス』にヒューイがブルース・ハープ奏者として参加している。
クローバー解散後、ヒューイはサンフランシスコに戻ってアメリカン・エキスプレスというバンドを結成するが、失敗。’79年、ヒューイは失業中のミュージシャン達を集め、サンフランシスコにかつて存在した、アンクル・チャーリーズという酒場で、後にニュースのメンバーとなる、ジョニー・コーラ、クリス・ヘイズ、マリオ・シポリナ、ビル・ギブソン、ショーン・ホッパーらとバー・バンドとして活動を始めた。そんな中、後にマネージャーとなる、ビル・ブラウンが彼らの才能を見出し、クリサリス・レコード社との契約を結んだ。
’80年、ヒューイ・ルイス & ジ・アメリカン・エキスプレスを結成。すぐヒューイ・ルイス & ザ・ニュースと名を変えてデビューする運びとなった。1stアルバム『ヒューイ・ルイス & ザ・ニュース』は、商業的には失敗に終わるが、’82年リリースの2ndアルバム『ベイエリアの風』からのシングル・カット「ビリーヴ・イン・ラヴ」がヒットし、ようやくヒューイは陽の目を見る。そして’83年、アルバム『スポーツ』を発表。「アイ・ウォント・ア・ニュー・ドラッグ」、「ハート・オブ・ロックンロール」、「いつも夢見て(If This Is It)」などのヒット曲を連発し、800万枚以上を売り上げてバンドは一躍スターとなった。
’85年には、大ヒット映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』の主題歌「パワー・オブ・ラヴ」が全米1位の大ヒット。同年、USAフォー・アフリカの「ウィー・アー・ザ・ワールド」に参加。’86年のアルバム『FORE!』からは「ジェイコブズ・ラダー」と「スタック・ウィズ・ユー」の2曲が全米シングル・チャートのNO.1になり、まさに人気は絶頂を極めた。’88年の『スモール・ワールド』以降は、バンドの方向性を巡ってレコード会社と衝突することも多く、移籍を繰り返し、メジャー・レーベル以外からアルバムをリリースすることもあり、またメンバーの脱退と新加入があったが、ストレートなアメリカン・ロック魂は失われることなく現在も絶好調である。


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2013年9月4日水曜日

来日アーティスト Pick up Andy Fairweather Low(アンディ・フェアウェザー・ロウ)


〔SOUND FINDER 営業日記!〕 推薦公演 vol.003 レコードを聴いてライブに行こう!

エイメン・コーナーのヴォーカリスト、近年はエリック・クラプトンのツアー・メンバーとしてお馴染みのアンディ・フェアウェザー・ロウが来日 初公演を敢行!


とても人が良さそうな英国紳士、という感じでサポート・ワークが多い、アンディ・フェアウェザー・ロウですが、まるで侮れないキャリアの持ち主。ギターを弾きまくるエリック・クラプトンを支える理解者、という立ち位置で来日回数も比較的多い彼ですが、自身のバンドでの来日公演は初だそうです。

’66年にエイメン・コーナーのヴォーカリストとしてデビュー。’67年にベッシー・スミスのカバー「Gin House Blues」が全英12位を記録、’69年には「(If Paradise Is) Half as Nice」が全英1位を獲得し、波に乗るも’70年にバンドが2つに分裂してしまい、その後はフェア・ウェザーと改名し新バンドを結成。同年シングル「Natural Sinner」で全英6位を記録するが、バンドはアルバムを1枚残して解散。解散後は引退を表明するものの、’74年にソロ・アーティストとしてカム・バック。ソロ活動と並行して、ロイ・ウッドデイヴ・エドマンズリチャード・トンプソン等多くのミュージシャンのレコーディング・セッションに参加。’83年には、ARMS コンサートに参加し、エリック・クラプトンと初共演。
’91年からは、エリック・クラプトンのサポート・ギタリストとして抜擢され、ワールド・ツアーやレコーディングに参加。’91年のジョージ・ハリスンエリック・クラプトンの来日公演にも同行し、独特のフィンガー・ピッキングを披露した。
’99年から’02年にかけて、元ピンク・フロイドロジャー・ウォーターズのワールド・ツアーに、ギタリスト及びベーシストとして参加。
現在もギタリスト、シンガー・ソング・ライターとして精力的な活動を続けている。


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2013年9月1日日曜日

来日アーティスト Pick up Richie Furay(リッチー・フューレイ)


〔SOUND FINDER 営業日記!〕 推薦公演 vol.002 レコードを聴いてライブに行こう!

すごいぞ 初来日! ウェストコースト・ロック界の歴史的重要人物が日本初上陸!


’65年頃、スティーヴン・スティルスらとともに、ニューヨークのナイトクラブ Cafe Au Go Go の専属バンド Au Go Go Singers のメンバーとして活動し、その後ニール・ヤングらとバッファロー・スプリングフィールドを結成。’60年代後半には、ジム・メッシーナランディ・マイズナーらとカントリーロックバンド、ポコを結成。フューレイが書いた「Pickin' Up The Pieces」、「Good Feelin' To Know」はその後、カントリー・ロックにおけるスタンダード・ナンバーとなった。
’74年、ポコを脱退した後、J.D.サウザークリス・ヒルマンとともにサウザー・ヒルマン・フューレイ・バンドを結成。1stアルバムはゴールド・ ディスクを獲得し、シングル「Fallin' in Love」はトップ30まで上昇するヒットとなったが、結局アルバム2枚を発表したのみで解散。この頃、バンド仲間だったアル・パーキンスの勧めで熱心なクリスチャンとなる。
’76年、リッチー・フューレイ・バンドを結成し、アルバム『I've Got a Reason』をリリース。このアルバムはクリスチャンとしてのフューレイの思想を色濃く反映したもので、このアルバムによりフューレイはクリスチャン・ロックのパイオニアとして知られることとなる。’80年以降は牧師として活動しながら、ソロ・アーティストとして、また時折ポコを再結成するなどして音楽活動を続けている。


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2013年8月30日金曜日

来日アーティスト Pick up Allen Toussaint(アラン・トゥーサン)

〔SOUND FINDER 営業日記!〕 推薦公演 vol.001 レコードを聴いてライブに行こう!

ニューオリンズ音楽の牽引者、米国国宝級のリヴィング・レジェンド、
アラン・トゥーサンが来日! 


今回は、ソロでの出演のようです。ここ数年の間にビルボードライヴ出演の常連という感じですが、生で観る機会があるということは、とても嬉しいことです。

’52年フラミンゴスを結成(このバンドにはスヌークス・イーグリンがギタリストとして在籍)。'55年、デイヴ・ バーソロミューの目に留まり、ファッツ・ドミノスマイリー・ルイスらのセッションに参加。このあたりから、セッション・ピアニストとして名を上げ、’58年のリー・アレンのヒット「Walkin' With Mr. Lee」のアレンジを担当してからは、アレンジャーとしても高評価を得る。同年、初のソロ作『The Wild Sound of New Orleans』も発表。
’60年、ミニット・レーベルにディレクターとして迎え入れられ、ジェシー・ヒルの「Ooh Poo Pah Doo」やアーマ・トーマスの「It's Raining」など、彼のプロデュース、作曲によるヒット曲が数多く世に送り出されるようになった。’60年代トゥーサンは、インスタント、フューリーなどのレーベルでも同様の活躍をし、ニューオーリンズの音楽シーンに大きな足跡を残し、’65年にはマーシャル・シホーンとサンス・レーベルを興している。
’70年代になると、’70年の『From a Whisper to a Scream』を始めとして、自己名義のアルバムを複数リリース。’75年『Southern Nights』は、彼の代表作であり、他に、’73年のドクター・ジョン『In The Right Place』や’74年の『Desitively Bonnaroo』、’78年にはアルバート・キングの『New Orleans Heat』をプロデュース、ウイングスの『Venus And Mars』にピアノで参加するなど、幅広く活躍した。
’96年には、ニューヨークとニューオーリンズの頭文字を取って名付けたナイノ(Nyno)レーベルを設立。同レーベルから、’96年に自身のアルバム『Connected』をはじめ、オリバー・モーガンやレイモンド・マイルズなど、 ニューオーリンズのアーティストたちがアルバムをリリースした。そして’98年、ロックの殿堂の非演奏者部門入りを果たした。
’05年、ハリケーン・カトリーナで被災。ニューオーリンズ市内の自宅もシーセイント・スタジオも全壊してしまい、しばらくニューヨークに拠点を構えていたが、現在は、ニューオーリンズに戻っていているそう。カトリーナ以降、数々のカトリーナ関連のベネフィット・コンサート、CDなどに参加。’06年、エルヴィス・コステロとの共作『The River In Reverse』をリリース、中島美嘉のシングル「All Hands Together」にも参加するなど、多岐にわたり存在感を示している。


余談ですが、たまたま仕事の用事でFジテレビ内をウロウロしていたところ、スタジオの扉が開き、突如アラン・トゥーサンがぬぅっと現れまして、思わず「うわぁぁぁぁぁ!」と声を上げてしまったことがあります。おそらくは中島美嘉と共演でテレビ収録のために来ていたのだと思いますが、その日いみじくも『Southern Nights』を聴きながら、ゆりかもめに乗ってお台場に向かったこともあり、ものすごくビックリするとともに、幸せな気分でした。


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2013年8月22日木曜日

訃報 藤圭子 享年62歳

歌手 藤圭子さんが亡くなりました。
怨歌(夜の世界に生きる女の感情をリアルに描いた陰鬱な歌)を深々と歌い上げ、'60年代終わりから'70年代初めにかけて一世を風靡しました。



幼少の頃から浪曲歌手の父と三味線瞽女の母に同行し、旅回りの生活を送りました。勉強好きで成績優秀でしたが、貧しい生活を支えるために高校進学を断念したそうです。
17歳の時にさっぽろ雪まつりのステージで歌う姿が音楽業界関係者の目に留まり、上京。'69年「新宿の女」でデビューしました。
ファースト・アルバム『新宿の女』は20週連続1位となり、ファースト・アルバムから4ヶ月後にリリースしたセカンド・アルバム『女のブルース』は17週連続1位を記録するという、空前絶後の記録を残しました。'70年4月にリリースした「圭子の夢は夜ひらく」の大ヒットで、NHK 紅白歌合戦に出演しました。

ところで、「圭子の夢は夜ひらく」は、'66年に園まりが発売した「夢は夜ひらく」のカバーで、もともとの原曲は練馬少年鑑別所で歌われていた曲を曾根幸明が採譜・補作したものだそうで、数多くの歌詞の異なるヴァージョンが存在します。


ご冥福をお祈り致します。

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2013年8月21日水曜日

訃報 Cedar Walton〔シダー・ウォルトン〕 享年79歳

モダン・ジャズ界の巨匠ピアニスト、シダー・ウォルトンが亡くなりました。


大学卒業後、'50年代中頃にニューヨークへ出た彼はケニー・ドーハムのバンドに加わり、音楽活動を始めました。以後、ジジ・グライスジョン・コルトレーンの『ジャイアント・ステップス』の録音に参加しました。
'60年代の初め、ピアニスト、アレンジャーとしてアート・ブレイキージャズ・メッセンジャーズに3年間籍を置き、ウェイン・ショーターフレディ・ハバードカーティス・フラーらと活動。ジャズ・メッセンジャーズ時代には「ugetsu」など、日本にちなんだ曲もつくりました。'64年、ジャズ・メッセンジャーズを脱退後は、様々なミュージシャンと演奏を行っており、サム・ジョーンズビリー・ヒギンスらと日本にも来日しています。渡辺貞夫笠井紀美子山本剛鈴木勲など、日本のジャズ・ミュージシャンとの共演も多数ありました。

ご冥福をお祈り致します。

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2013年8月17日土曜日

訃報 Eydie Gorme〔イーディ・ゴーメ〕 享年84歳

永遠の名盤『恋はボサノバ(Blame It On Bossa Nova)』で知られる米ポップス歌手、イーディ・ゴーメが亡くなりました。



ニューヨークで、ユダヤ系の両親の間に生まれ、高校卒業後、トミー・タッカー楽団で、デビューを果たしました。'57年に、歌手のスティーブ・ローレンスと結婚。'63年に、邦題「恋はボサノバ」(Blame It on the Bossa Nova)が大ヒットとなり、全米レコード協会よりゴールドディスクと認定されました。ボサノヴァの有名曲  「Recado」に英詞をつけた「ザ・ギフト」もジャズのスタンダード・ナンバーとして定着しています。
'95年、ソングライターズ・ホール・オブ・フェイム(Songwriters Hall of Fame) に、夫のスティーブ・ローレンスと共に、殿堂入りを果たし、夫とのツアーは2000年代まで続いていました。

夫のローレンス氏は<イーディーとは55年以上の間、ステージでも私生活でもいつも一緒だった。彼女には一目惚れだったが、彼女の歌声を聞いてより一層好きになった>と述べ、<世界は偉大なポップ歌手を失った>と付け加えました。

まさに、その言葉通り、またひとり偉大なるシンガーがこの世を去ってしまったことが残念でなりません。

ご冥福をお祈り致します。

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