〔SOUND FINDER 営業日記!〕 推薦公演 vol.001 レコードを聴いてライブに行こう!
ニューオリンズ音楽の牽引者、米国国宝級のリヴィング・レジェンド、
アラン・トゥーサンが来日!
今回は、ソロでの出演のようです。ここ数年の間にビルボードライヴ出演の常連という感じですが、生で観る機会があるということは、とても嬉しいことです。
’52年フラミンゴスを結成(このバンドにはスヌークス・イーグリンがギタリストとして在籍)。'55年、デイヴ・
バーソロミューの目に留まり、ファッツ・ドミノ、スマイリー・ルイスらのセッションに参加。このあたりから、セッション・ピアニストとして名を上げ、’58年のリー・アレンのヒット「Walkin' With Mr.
Lee」のアレンジを担当してからは、アレンジャーとしても高評価を得る。同年、初のソロ作『The Wild Sound of New
Orleans』も発表。
’60年、ミニット・レーベルにディレクターとして迎え入れられ、ジェシー・ヒルの「Ooh Poo Pah Doo」やアーマ・トーマスの「It's Raining」など、彼のプロデュース、作曲によるヒット曲が数多く世に送り出されるようになった。’60年代トゥーサンは、インスタント、フューリーなどのレーベルでも同様の活躍をし、ニューオーリンズの音楽シーンに大きな足跡を残し、’65年にはマーシャル・シホーンとサンス・レーベルを興している。
’70年代になると、’70年の『From a Whisper to a
Scream』を始めとして、自己名義のアルバムを複数リリース。’75年『Southern
Nights』は、彼の代表作であり、他に、’73年のドクター・ジョン『In The Right Place』や’74年の『Desitively
Bonnaroo』、’78年にはアルバート・キングの『New Orleans
Heat』をプロデュース、ウイングスの『Venus And Mars』にピアノで参加するなど、幅広く活躍した。
’96年には、ニューヨークとニューオーリンズの頭文字を取って名付けたナイノ(Nyno)レーベルを設立。同レーベルから、’96年に自身のアルバム『Connected』をはじめ、オリバー・モーガンやレイモンド・マイルズなど、
ニューオーリンズのアーティストたちがアルバムをリリースした。そして’98年、ロックの殿堂の非演奏者部門入りを果たした。
’05年、ハリケーン・カトリーナで被災。ニューオーリンズ市内の自宅もシーセイント・スタジオも全壊してしまい、しばらくニューヨークに拠点を構えていたが、現在は、ニューオーリンズに戻っていているそう。カトリーナ以降、数々のカトリーナ関連のベネフィット・コンサート、CDなどに参加。’06年、エルヴィス・コステロとの共作『The River In
Reverse』をリリース、中島美嘉のシングル「All Hands
Together」にも参加するなど、多岐にわたり存在感を示している。
余談ですが、たまたま仕事の用事でFジテレビ内をウロウロしていたところ、スタジオの扉が開き、突如アラン・トゥーサンがぬぅっと現れまして、思わず「うわぁぁぁぁぁ!」と声を上げてしまったことがあります。おそらくは中島美嘉と共演でテレビ収録のために来ていたのだと思いますが、その日いみじくも『Southern Nights』を聴きながら、ゆりかもめに乗ってお台場に向かったこともあり、ものすごくビックリするとともに、幸せな気分でした。
★公演についての詳細はこちら。
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★アラン・トゥーサンのCDはこちら。
2013年8月30日金曜日
2013年8月22日木曜日
訃報 藤圭子 享年62歳
歌手 藤圭子さんが亡くなりました。
怨歌(夜の世界に生きる女の感情をリアルに描いた陰鬱な歌)を深々と歌い上げ、'60年代終わりから'70年代初めにかけて一世を風靡しました。
幼少の頃から浪曲歌手の父と三味線瞽女の母に同行し、旅回りの生活を送りました。勉強好きで成績優秀でしたが、貧しい生活を支えるために高校進学を断念したそうです。
17歳の時にさっぽろ雪まつりのステージで歌う姿が音楽業界関係者の目に留まり、上京。'69年「新宿の女」でデビューしました。
ファースト・アルバム『新宿の女』は20週連続1位となり、ファースト・アルバムから4ヶ月後にリリースしたセカンド・アルバム『女のブルース』は17週連続1位を記録するという、空前絶後の記録を残しました。'70年4月にリリースした「圭子の夢は夜ひらく」の大ヒットで、NHK 紅白歌合戦に出演しました。
ところで、「圭子の夢は夜ひらく」は、'66年に園まりが発売した「夢は夜ひらく」のカバーで、もともとの原曲は練馬少年鑑別所で歌われていた曲を曾根幸明が採譜・補作したものだそうで、数多くの歌詞の異なるヴァージョンが存在します。
ご冥福をお祈り致します。
★藤圭子のレコードはこちら
★藤圭子のCDはこちら
怨歌(夜の世界に生きる女の感情をリアルに描いた陰鬱な歌)を深々と歌い上げ、'60年代終わりから'70年代初めにかけて一世を風靡しました。
幼少の頃から浪曲歌手の父と三味線瞽女の母に同行し、旅回りの生活を送りました。勉強好きで成績優秀でしたが、貧しい生活を支えるために高校進学を断念したそうです。
17歳の時にさっぽろ雪まつりのステージで歌う姿が音楽業界関係者の目に留まり、上京。'69年「新宿の女」でデビューしました。
ファースト・アルバム『新宿の女』は20週連続1位となり、ファースト・アルバムから4ヶ月後にリリースしたセカンド・アルバム『女のブルース』は17週連続1位を記録するという、空前絶後の記録を残しました。'70年4月にリリースした「圭子の夢は夜ひらく」の大ヒットで、NHK 紅白歌合戦に出演しました。
ところで、「圭子の夢は夜ひらく」は、'66年に園まりが発売した「夢は夜ひらく」のカバーで、もともとの原曲は練馬少年鑑別所で歌われていた曲を曾根幸明が採譜・補作したものだそうで、数多くの歌詞の異なるヴァージョンが存在します。
ご冥福をお祈り致します。
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2013年8月21日水曜日
訃報 Cedar Walton〔シダー・ウォルトン〕 享年79歳
モダン・ジャズ界の巨匠ピアニスト、シダー・ウォルトンが亡くなりました。
大学卒業後、'50年代中頃にニューヨークへ出た彼はケニー・ドーハムのバンドに加わり、音楽活動を始めました。以後、ジジ・グライス、ジョン・コルトレーンの『ジャイアント・ステップス』の録音に参加しました。
'60年代の初め、ピアニスト、アレンジャーとしてアート・ブレイキーのジャズ・メッセンジャーズに3年間籍を置き、ウェイン・ショーター、フレディ・ハバード、カーティス・フラーらと活動。ジャズ・メッセンジャーズ時代には「ugetsu」など、日本にちなんだ曲もつくりました。'64年、ジャズ・メッセンジャーズを脱退後は、様々なミュージシャンと演奏を行っており、サム・ジョーンズ、ビリー・ヒギンスらと日本にも来日しています。渡辺貞夫、笠井紀美子、山本剛、鈴木勲など、日本のジャズ・ミュージシャンとの共演も多数ありました。
ご冥福をお祈り致します。
★シダー・ウォルトンのレコードはこちら
★シダー・ウォルトンのCDはこちら
大学卒業後、'50年代中頃にニューヨークへ出た彼はケニー・ドーハムのバンドに加わり、音楽活動を始めました。以後、ジジ・グライス、ジョン・コルトレーンの『ジャイアント・ステップス』の録音に参加しました。
'60年代の初め、ピアニスト、アレンジャーとしてアート・ブレイキーのジャズ・メッセンジャーズに3年間籍を置き、ウェイン・ショーター、フレディ・ハバード、カーティス・フラーらと活動。ジャズ・メッセンジャーズ時代には「ugetsu」など、日本にちなんだ曲もつくりました。'64年、ジャズ・メッセンジャーズを脱退後は、様々なミュージシャンと演奏を行っており、サム・ジョーンズ、ビリー・ヒギンスらと日本にも来日しています。渡辺貞夫、笠井紀美子、山本剛、鈴木勲など、日本のジャズ・ミュージシャンとの共演も多数ありました。
ご冥福をお祈り致します。
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2013年8月17日土曜日
訃報 Eydie Gorme〔イーディ・ゴーメ〕 享年84歳
永遠の名盤『恋はボサノバ(Blame It On Bossa Nova)』で知られる米ポップス歌手、イーディ・ゴーメが亡くなりました。
ニューヨークで、ユダヤ系の両親の間に生まれ、高校卒業後、トミー・タッカー楽団で、デビューを果たしました。'57年に、歌手のスティーブ・ローレンスと結婚。'63年に、邦題「恋はボサノバ」(Blame It on the Bossa Nova)が大ヒットとなり、全米レコード協会よりゴールドディスクと認定されました。ボサノヴァの有名曲 「Recado」に英詞をつけた「ザ・ギフト」もジャズのスタンダード・ナンバーとして定着しています。
'95年、ソングライターズ・ホール・オブ・フェイム(Songwriters Hall of Fame) に、夫のスティーブ・ローレンスと共に、殿堂入りを果たし、夫とのツアーは2000年代まで続いていました。
夫のローレンス氏は<イーディーとは55年以上の間、ステージでも私生活でもいつも一緒だった。彼女には一目惚れだったが、彼女の歌声を聞いてより一層好きになった>と述べ、<世界は偉大なポップ歌手を失った>と付け加えました。
まさに、その言葉通り、またひとり偉大なるシンガーがこの世を去ってしまったことが残念でなりません。
ご冥福をお祈り致します。
★イーディ・ゴーメのレコードはこちら
★イーディ・ゴーメのCDはこちら
ニューヨークで、ユダヤ系の両親の間に生まれ、高校卒業後、トミー・タッカー楽団で、デビューを果たしました。'57年に、歌手のスティーブ・ローレンスと結婚。'63年に、邦題「恋はボサノバ」(Blame It on the Bossa Nova)が大ヒットとなり、全米レコード協会よりゴールドディスクと認定されました。ボサノヴァの有名曲 「Recado」に英詞をつけた「ザ・ギフト」もジャズのスタンダード・ナンバーとして定着しています。
'95年、ソングライターズ・ホール・オブ・フェイム(Songwriters Hall of Fame) に、夫のスティーブ・ローレンスと共に、殿堂入りを果たし、夫とのツアーは2000年代まで続いていました。
夫のローレンス氏は<イーディーとは55年以上の間、ステージでも私生活でもいつも一緒だった。彼女には一目惚れだったが、彼女の歌声を聞いてより一層好きになった>と述べ、<世界は偉大なポップ歌手を失った>と付け加えました。
まさに、その言葉通り、またひとり偉大なるシンガーがこの世を去ってしまったことが残念でなりません。
ご冥福をお祈り致します。
★イーディ・ゴーメのレコードはこちら
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2013年8月15日木曜日
訃報 山口冨士夫 享年64歳
伝説のバンド 村八分 のギタリストで、“日本のロック”をつくった重要人物である、
山口冨士夫さんが亡くなりました。
'67年、ザ・ダイナマイツのギタリストとしてデビュー。デビュー曲「トンネル天国」がヒットしますが、バンドは'69年大晦日のステージで解散。'70年代初頭に盟友であるチャー坊〔柴田和志〕と共に、伝説のバンド村八分を結成し、 当時まだ混沌としていた日本のロック界に風穴をあけました。'73年、村八分解散後は、ソロ・アルバム『ひまつぶし』を発表し、その後はリゾート、裸のラリーズ、タンブリングス、ティアドロップスなどで精力的なライブ活動を展開しました。
近年、体調を崩し、闘病生活を送っていましたが、'08年よりライブ活動を再開。断続的なライブ活動はリハビリも兼ねていたそうですが、力強く、貫禄あるライブ・パフォーマンスだったそうです。
ご冥福をお祈り致します。
★山口冨士夫 関連のレコードはこちら
★山口冨士夫 関連のCDはこちら
★村八分のレコードはこちら
★村八分のCDはこちら
山口冨士夫さんが亡くなりました。
'67年、ザ・ダイナマイツのギタリストとしてデビュー。デビュー曲「トンネル天国」がヒットしますが、バンドは'69年大晦日のステージで解散。'70年代初頭に盟友であるチャー坊〔柴田和志〕と共に、伝説のバンド村八分を結成し、 当時まだ混沌としていた日本のロック界に風穴をあけました。'73年、村八分解散後は、ソロ・アルバム『ひまつぶし』を発表し、その後はリゾート、裸のラリーズ、タンブリングス、ティアドロップスなどで精力的なライブ活動を展開しました。
近年、体調を崩し、闘病生活を送っていましたが、'08年よりライブ活動を再開。断続的なライブ活動はリハビリも兼ねていたそうですが、力強く、貫禄あるライブ・パフォーマンスだったそうです。
ご冥福をお祈り致します。
★山口冨士夫 関連のレコードはこちら
★山口冨士夫 関連のCDはこちら
★村八分のレコードはこちら
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2013年8月14日水曜日
VOLOMUSIKS インタビュー
先日、霞町音楽会 第6回にオープニング・アクトとして 出演するVOLOMUSIKS(ボロムジクス)にインタビューをさせていただきました。
音楽に対して、とてもピュアに対峙している新人バンドです。
若い世代の方々はもちろんですが、とかく<最近の若い人の音楽はわからんのう・・・>と宣う30代後半〜5、60代の方々にも、彼らの音楽、そしてライブ・パフォーマンスにはシンパシーを感じることが出来る、とても魅力的なバンドです!
ぜひ、御一読ください! そして10月14日(月・祝)には、霞町音楽会 第6回で彼らの魅力に触れてください!
インタビュー記事はこちらです。
★チケットの購入方法など、霞町音楽会 第6回 についての詳細は、こちらです。
音楽に対して、とてもピュアに対峙している新人バンドです。
若い世代の方々はもちろんですが、とかく<最近の若い人の音楽はわからんのう・・・>と宣う30代後半〜5、60代の方々にも、彼らの音楽、そしてライブ・パフォーマンスにはシンパシーを感じることが出来る、とても魅力的なバンドです!
ぜひ、御一読ください! そして10月14日(月・祝)には、霞町音楽会 第6回で彼らの魅力に触れてください!
インタビュー記事はこちらです。
★チケットの購入方法など、霞町音楽会 第6回 についての詳細は、こちらです。
2013年8月7日水曜日
訃報 George Duke〔ジョージ・デューク〕 享年67歳
ジャズ・ピアニストのパイオニア的存在で、コンポーザー、プロデューサー、歌手としても知られているジョージ・デュークが亡くなりました。
米カリフォルニア州サン・ラファエル生まれ。ピアノをはじめたきっかけは、母親に連れて行かれたデューク・エリントンのコンサートだったそうで、7歳からピアノの教育を受け始めました。16歳の時、高校の仲間と時代にグループを組み、ジャズを演奏しはじめ、この頃はマイルス・デイヴィスやソウル・ジャズに多大な影響を受けていました。サンフランシスコ音楽院ではトロンボーンと作曲を専攻。在学中にはアル・ジャロウとグループを組んでクラブで演奏していたそうです。'70年代に入るとキャノンボール・アダレイやクインシー・ジョーンズ、フランク・ザッパ、ビリー・コブハムのグループに参加して、徐々に知名度を上げていきました。
'77年にEpic / CBSでアルバム『From Me To You』をリリース。持ち前のファンキーなプレイで、当時ブームだったディスコ・サウンドへ傾倒していき、この時期に古くからの盟友、スタンリー・クラークと、Clarke / Duke Projectで3枚のアルバムを発表しています。
'85年にワーナー・ミュージックのエレクトラ・レコードに移籍。アルバム『Thief In The Night』、他2枚のアルバムを発表しつつも、並行してプロデュース業にも才能を発揮します。'92年にワーナー・ブラザーズ・レコードに移り、アルバム『Snapshot』を発表。
'02年になるとマイナー・レーベルのピザーレ・プラネットに移籍し、3作発表した後、'08年にはヘッズ・アップに移籍して、アルバム『Dukey Treats』を発表しました。闘病中も音楽への情熱は消えることなく、先月アルバム『DreamWeaver』をリリースしたばかりでした。
彼は、ジャズだけ留まることなく、マイルス・デイヴィス、フランク・ザッパ、グラディス・ナイト、アニタ・ベーカー、マイケル・ジャクソンなど、ファンク、R&B、ポップ、ディスコなど多岐にわたるジャンルのアーティストと共演して、数々の名演を生み出しました。もちろん若い世代のアーティストにも大きな影響を与えており、彼の音楽は新世代アーティストを通じて後世に語り継がれ、残りつづけていくことでしょう。
ご冥福をお祈り致します。
★ジョージ・デュークのレコードはこちら
★ジョージ・デュークのCDはこちら
米カリフォルニア州サン・ラファエル生まれ。ピアノをはじめたきっかけは、母親に連れて行かれたデューク・エリントンのコンサートだったそうで、7歳からピアノの教育を受け始めました。16歳の時、高校の仲間と時代にグループを組み、ジャズを演奏しはじめ、この頃はマイルス・デイヴィスやソウル・ジャズに多大な影響を受けていました。サンフランシスコ音楽院ではトロンボーンと作曲を専攻。在学中にはアル・ジャロウとグループを組んでクラブで演奏していたそうです。'70年代に入るとキャノンボール・アダレイやクインシー・ジョーンズ、フランク・ザッパ、ビリー・コブハムのグループに参加して、徐々に知名度を上げていきました。
'77年にEpic / CBSでアルバム『From Me To You』をリリース。持ち前のファンキーなプレイで、当時ブームだったディスコ・サウンドへ傾倒していき、この時期に古くからの盟友、スタンリー・クラークと、Clarke / Duke Projectで3枚のアルバムを発表しています。
'85年にワーナー・ミュージックのエレクトラ・レコードに移籍。アルバム『Thief In The Night』、他2枚のアルバムを発表しつつも、並行してプロデュース業にも才能を発揮します。'92年にワーナー・ブラザーズ・レコードに移り、アルバム『Snapshot』を発表。
'02年になるとマイナー・レーベルのピザーレ・プラネットに移籍し、3作発表した後、'08年にはヘッズ・アップに移籍して、アルバム『Dukey Treats』を発表しました。闘病中も音楽への情熱は消えることなく、先月アルバム『DreamWeaver』をリリースしたばかりでした。
彼は、ジャズだけ留まることなく、マイルス・デイヴィス、フランク・ザッパ、グラディス・ナイト、アニタ・ベーカー、マイケル・ジャクソンなど、ファンク、R&B、ポップ、ディスコなど多岐にわたるジャンルのアーティストと共演して、数々の名演を生み出しました。もちろん若い世代のアーティストにも大きな影響を与えており、彼の音楽は新世代アーティストを通じて後世に語り継がれ、残りつづけていくことでしょう。
ご冥福をお祈り致します。
★ジョージ・デュークのレコードはこちら
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2013年8月2日金曜日
8月に入った真夏の夜、中村まりさんのライブがとても素晴らしかったのです!
渋谷の繁華街は常にガヤガヤギラギラしていて、“疲れる”街である。なので〈誰と行くか?〉や〈渋谷のどこにいくか?〉とか〈何をしに行くか?〉がちゃんとハッキリしていないと、ほんとにほんとに疲れてしまうのだ。
しかし昨日(8/1)は、そこのところがハッキリしていて、CLUB QUATTRO(ちなみに25周年だそうです。)に中村まりさんのライブを観に行ったのだ。〈期待感を抱えて渋谷の繁華街に足を踏み入れる〉というのは、久しぶりである。
昨日は常設ステージの前に、小さめのステージが組まれていて、それを半円形にお客さんが囲むような席配置になっており、親近感ある空間となっているのがうれしい。ギター好きとしてはなおさらである。
中村まりさんの、芯が太いが人の心を優しく包むような声質が心地良く、そっと背後から支えるかのように色を添える安宅浩司さんのギターが素晴らしかった。歌への絡み様が絶妙なのである。曲の始まりは抑えめに、曲の中盤に向かって音数が増えていくが出過ぎず、あくまでも歌を引き立てるフレーズがとても素敵なのだ。「A Brand New Day」からはじまり、数々のオリジナル曲(もちろんすべて英語で歌われる)の中に「Diddy Wah Diddy」などの古典曲をちりばめたステージは、中村まり=Martin 000-18と安宅浩司=Gibson J-45 の微妙な音色の違いを楽しむことも出来、テクニックはもちろんのこと、ふたりの奏でる豊かな調和が心地良かった。
ちなみに安宅氏はもう1本ギターをスタンバイしていて、曲により、膝に寝かせてスライドバーを巧みに操り、我々を米国深南部方面へと誘ってくれたのだ。
「なんだか今日は気持ちよく眠れそうだなぁ」というのが偽らざる心境だったのだが、それは彼女の無垢な声質だったり、人間の指が奏でるアコースティック・ギターの木の音色だったり、とにかくヒューマンな音楽に触れたからである。そんなやわらかい気分でライブを観終えたので、終演後、駅に向かうまでの繁華街が、なんだかいつもよりわざとらしい美術セットみたいに見えてしまってオカシカッタ。
さて、このふたりのライブはまだまだ続くのである。中村まりオフィシャルサイトには、こんなフライヤーが掲載されていたので、ぜひお近くの方は、ぜーったいに観ることをお勧めします!
(以前掲載した、中村まりさんのインタビューはこちらです。まだ未読の方はぜひ!御一読ください。)
しかし昨日(8/1)は、そこのところがハッキリしていて、CLUB QUATTRO(ちなみに25周年だそうです。)に中村まりさんのライブを観に行ったのだ。〈期待感を抱えて渋谷の繁華街に足を踏み入れる〉というのは、久しぶりである。
昨日は常設ステージの前に、小さめのステージが組まれていて、それを半円形にお客さんが囲むような席配置になっており、親近感ある空間となっているのがうれしい。ギター好きとしてはなおさらである。
中村まりさんの、芯が太いが人の心を優しく包むような声質が心地良く、そっと背後から支えるかのように色を添える安宅浩司さんのギターが素晴らしかった。歌への絡み様が絶妙なのである。曲の始まりは抑えめに、曲の中盤に向かって音数が増えていくが出過ぎず、あくまでも歌を引き立てるフレーズがとても素敵なのだ。「A Brand New Day」からはじまり、数々のオリジナル曲(もちろんすべて英語で歌われる)の中に「Diddy Wah Diddy」などの古典曲をちりばめたステージは、中村まり=Martin 000-18と安宅浩司=Gibson J-45 の微妙な音色の違いを楽しむことも出来、テクニックはもちろんのこと、ふたりの奏でる豊かな調和が心地良かった。
ちなみに安宅氏はもう1本ギターをスタンバイしていて、曲により、膝に寝かせてスライドバーを巧みに操り、我々を米国深南部方面へと誘ってくれたのだ。
「なんだか今日は気持ちよく眠れそうだなぁ」というのが偽らざる心境だったのだが、それは彼女の無垢な声質だったり、人間の指が奏でるアコースティック・ギターの木の音色だったり、とにかくヒューマンな音楽に触れたからである。そんなやわらかい気分でライブを観終えたので、終演後、駅に向かうまでの繁華街が、なんだかいつもよりわざとらしい美術セットみたいに見えてしまってオカシカッタ。
さて、このふたりのライブはまだまだ続くのである。中村まりオフィシャルサイトには、こんなフライヤーが掲載されていたので、ぜひお近くの方は、ぜーったいに観ることをお勧めします!
(以前掲載した、中村まりさんのインタビューはこちらです。まだ未読の方はぜひ!御一読ください。)
2013年8月1日木曜日
レコード通販のエキスパート サウンドファインダーが参加ショップのみに提供していた 配送サービスを広く解禁! 通販業者の通信費軽減を支援します。
日本最大のレコードショッピングモール音楽専門オンラインショッピングモール
サウンドファインダー(http://www.soundfinder.jp)を運営する株式会社マッチファインダー(本社:東京都北区
代表:新川宰久)はサウンドファインダーに出店しているショップのみ提供していた全国一律料金配送サービス(※1)を、その他の通販事業者にも8月1日より提供を開始します。
通販の通信費を軽減させることは、各事業者にとって速やかに解決しなければならない課題です。件数が多ければ、配送業者によるボリューム・ディスカウントも摘要されますが、物量がそれほど多くない場合、配送料の軽減は難しく、結果として通販そのものが困難になる傾向があります。サウンドファインダーでは、とかくかさみがちな配送経費を日頃から抑えていくことで通信販売業界の活性化を図ります。
(※1)全国一律500円(北海道、九州、沖縄からは600円)で配送できるサービス。2007年よりサービス開始。
【本件についてのお問い合わせ】
株式会社マッチファインダー/SOUND FINDER
担当:寺井篤史
携帯電話:090-8583-6308 メールアドレス:terai@matchfinder.jp
通販の通信費を軽減させることは、各事業者にとって速やかに解決しなければならない課題です。件数が多ければ、配送業者によるボリューム・ディスカウントも摘要されますが、物量がそれほど多くない場合、配送料の軽減は難しく、結果として通販そのものが困難になる傾向があります。サウンドファインダーでは、とかくかさみがちな配送経費を日頃から抑えていくことで通信販売業界の活性化を図ります。
(※1)全国一律500円(北海道、九州、沖縄からは600円)で配送できるサービス。2007年よりサービス開始。
【本件についてのお問い合わせ】
株式会社マッチファインダー/SOUND FINDER
担当:寺井篤史
携帯電話:090-8583-6308 メールアドレス:terai@matchfinder.jp
株式会社マッチファインダー(http://www.matchfinder.jp)について
2005年11月に日本初のレコード専門ショッピングモールサウンドファインダー(http://www.soundfinder.jp)をスタート。全 国の有名レコードショップが参加し、現在では在庫数は60万点を超える。2012年より音楽イベント「霞町音楽会」、近畿日本ツーリスト社とのコラボレー ション旅行企画「レコー道」、レーベル事業FIRST CALL RECORDINGSなどを手掛ける。また北区地域活性化事業では音楽ステージのプロデュースなども行っています。
2005年11月に日本初のレコード専門ショッピングモールサウンドファインダー(http://www.soundfinder.jp)をスタート。全 国の有名レコードショップが参加し、現在では在庫数は60万点を超える。2012年より音楽イベント「霞町音楽会」、近畿日本ツーリスト社とのコラボレー ション旅行企画「レコー道」、レーベル事業FIRST CALL RECORDINGSなどを手掛ける。また北区地域活性化事業では音楽ステージのプロデュースなども行っています。
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